シベリウス Jean Sibelius (1865〜1957、フィンランド)

 

年譜ではなく、私の愛読書から引用させてもらいます

 

  志鳥栄八郎著「クラシック名曲ものがたり集成」より


 

 

 「シベリウスの世界には人が住んでいない。男も女も、人間と名のつくものはただの一人もいない」(篠田一士訳)

 

 イギリスの批評家ネヴィル・カーダスは、「近代の音楽家」という著書の中で、このように述べている。

 

 シベリウスの音楽の世界には人が住んでいない、というカーダスの説がだとうなものかどうかは別として、彼の音楽がフィンランドの自然を反映しているということには、誰も異論がないであろう。シベリウスの音楽を聴いていると、あのフィンランドの霧に覆われた、神秘的な湖や、奥深い森の情景が、あたかもワイド・スクリーン映画でも見るかのように、眼前に浮かんでくるからである。

 

 大作曲家ヤン・シベリウスを生んだフィンランドは、フィンランド語で「スオミ」と呼ばれている。「湖の国」という意味である。俗に”森と湖の国”とも、”千の湖の国”とも呼ばれているように、フィンランドには、実に湖が多い。実際には大小合わせると、六万にも及ぶ湖と沼が、総面積33万7千平方キロの国土に散在しており、全国土の71パーセントが原始林で占められている。そこに五百万人近くの人間が住んでいるわけで、狭い国土に一億二千万人の人口がひしめき合っている日本からみると、うらやましいような広さである。

 

 だが、現実はたいへん厳しく、北極圏に近い高緯度に位置しているので、冬が長く、夏が短い。1952年にオリンピックの開催された首都ヘルシンキが、ちょうどカムチャツカ半島の付け根の部分にあたるところをみても、この国の寒さがいかに厳しいものであるかが、おわかりになるであろう。

 

 シベリウスが、天寿を全うして満91歳と9ヵ月の生涯を閉じたのは、1957年9月22日である。音楽史上、このシベリウスほどに長寿を保った作曲家というのは、大変珍しい。彼の生まれた、1865年というのは、日本の年号では慶応元年に当たる。アメリカでは、南北戦争が終わって、懸案の奴隷制度が廃止されようとしていたし、日本では、明治維新の下地が着々とできあがりつつあった。

 

 この年、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」がミュンヘンで初演され、翌1866年には、スメタナのオペラ「売られた花嫁」とトマのオペラ「ミニョン」がそれぞれ初演されている。また、チャイコフスキーがモスクワ音楽院で新任の教師生活に入ったのも、ブルックナーが「交響曲第一番」を書き上げたのも、同じく1866年のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、シベリウスが世を去った1957年というのは、世界初の人工衛星スプートニク一号がソビエトによって打ち上げられ、華々しい宇宙時代の開幕が宣言された年であった。このようにながめてみると、シベリウスの死は、一つの時代の終焉を画したもの、といっても過言ではないだろう。

 

 かつて、イギリスの評論家セシル・グレイは、シベリウスのことを、「ベートーヴェン以後における最大の交響曲作曲家」と絶賛したが、「ベートーヴェン以後」というのは、いささかほめすぎとしても、今世紀最大の交響曲作曲家の一人であることは、間違いない。

 

 大体、交響曲というのは、もともと、ドイツ・オーストリア系の作曲家のお家芸といってよかった。そこへ、音楽的には未開拓のフィンランドに、シベリウスのような交響曲作曲家が出現し、大きな足跡を残したのだから、セシル・グレイが、「ベートーヴェン以後の最大の作曲家」と称揚した、その気持ちはわからないでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、このシベリウスの出世作となったのは、1900年に発表された交響詩「フィンランディア」である。この曲は、隣国ロシアの圧政下にあって、暗鬱な空気のもとであえいでいたフィンランド国民を鼓舞するために書かれたもので、1900年7月2日、パリの万国博覧会で、フィンランドの指揮者カヤヌスの指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニーの演奏で紹介された。シベリウスが35歳のときである。

 

 このときまでに、彼はすでに組曲「カレリア」、交響詩「伝説」、交響詩「トゥオネラの白鳥」といった曲を作曲していた。そして「フィンランディア」を作曲した年に、彼にとっては最初の交響曲第一番を完成した。しかし、この曲には、シベリウスが敬愛していたチャイコフスキーやロシア国民楽派の影響がまだ随所に残っている。彼は、この曲を完成すると、ただちに次の交響曲に着手した。彼が、このように、矢継ぎ早に大曲に取り組むことができたというのは、すでにその頃、彼の生活がまったく安定していたからである。なぜかというと、1897年(32歳)に、フィンランド政府は、この前途有望な青年作曲家に終身年金を与えることを決定し、以来、彼は年額三千マルクの援助を国家から受けていたからである。

 1900年、新しい世紀を祝してパリで開催された万国博覧会に出席するヘルシンキ・フィルハーモニーに、彼は副指揮者の格で同行し、ついでにドイツや北欧諸国をまわり、各地で指揮台に立った。ちなみに、シベリウスの指揮ぶりは、専門の指揮者のような棒さばきの鮮やかさは見られなかったが、直截で力強く、オーケストラにも、聴衆にも、ともに評判がよかったといわれている。こうして、このヨーロッパ楽旅は大成功を収め、シベリウスの名前は、広くヨーロッパ中に知られるようになったのだ。

 

 このときの好評に気をよくしたシベリウスは、翌年、中部ヨーロッパやイタリアに足をのばしたが、この旅行も、彼にとって大変プラスだった。刻々と変貌する20世紀初頭の芸術思潮を、その肌で直接感じとり、存分に吸収することができたからである。

 

 彼はこのとき、イタリアからの帰途、プラハに立ち寄り、ドヴォルザークに会った。このチェコの大作曲家は、時に60歳、彼の九曲の交響曲をはじめ、主要な作品をすべて書き上げたあとで、死を三年後にひかえ、栄光の座に包まれた生活を送っていたわけだが、二人の会見は、あたたかな雰囲気のうちに行われたという。

 

 片や功成り名遂げたドヴォルザーク、片や前途洋々たるシベリウス。この二人の間で、どのような話がかわされたかはわからないが、シベリウスが、老ドヴォルザークの飾らない人柄から好ましい印象を受け、交響曲作曲への意欲を、さらにかきたてられたであろうことは想像にかたくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イタリアから帰国したあと、引き続いてハイデルベルク・フェスティヴァルに出かけ、ここでリヒャルト・シュトラウスの知己を得た。そしてこのあと、いよいよ本腰を入れて交響曲第二番の作曲にかかり、その年のうちに完成した。初演は、1902年の3月8日に、シベリウス自身の指揮でヘルシンキで行われた。男盛りの37歳のときである。初演は大成功であった。フィンランド国民は、自国の作曲家の手になる新作の交響曲を、熱狂して迎えた。そして、この曲が、彼の交響曲の代表作となったのである。

 シベリウスは、最後の交響曲第七番では、古典的な形式を捨てて単一楽章にするなど、いろいろと創意工夫をこらしているが、まだこの「第二番」では、前作の「第一番」と同様に、伝統的な手法を墨守している。

 

(中略)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前にもふれたように、「第一番」には、まだチャイコフスキーやロシア国民楽派の影響が強く見られたが、この「第二番」はそうした影響から完全に脱している。形式的には、一応、古典型式を踏襲しているが、第三、第四楽章を続けているし、また、全七曲のうち、民族的情緒が最も濃厚なのも、この作品の大きな特色といってよい。

 

(中略)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、この交響曲第二番によって交響曲作曲家としての地位を不動のものとしたシベリウスは、1907年(42歳)に、「第三番ハ長調」、1911年に「第四番イ短調」、1915年に「第五番変ホ長調」を、という具合に、大体四、五年に一曲のペースで、快調に交響曲を発表していった。

 

 ところが、1924年(59歳)の「第七番」を最後として、彼の交響曲の筆はさっぱりと動かなくなる。わずかに、交響詩「タピオラ」といくつかの小品を書きあげただけで、それから世を去るまでの30年間、謎のような沈黙の生活を送ったのである。

 生前、すでに「第八番」が完成しているという噂が流れ、なぜ発表しないのか、といろいろ論議を呼んだことがあった。シベリウスの義理の息子で、指揮者のユッシ・ヤラスも、「父は今でも作曲をしていますが、家族には何も言いません。ですから、わたしたちも父の気持ちを汲んでなるべく黙っているようにしているんです。」と語ったことがあり、「あるいは?」と期待を抱かせたが、フィンランド国民が心から待ち望み、また、世界中の音楽愛好者が鶴首していた「第八番」は、ついに発表されなかった。

 

 はたして、「第八番」は本当に作曲されていたのか、それとも作曲半ばで焼却されたしまったのか、その点、いまだに明らかではない。すべては、フィンランドの黒くて深い森のように、神秘のベールに包まれている。

 

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